第四話 「No Direction Home」
いつものように仕事帰りにカフェ・バー「No Direction Home」に立ち寄ると、
自分の指定席のように決まって店内右奥の丸テーブルの二人席に腰を落ち着けた。
ビールを一杯ちびりちびりと時間をかけて飲み終え、店内に客が一人二人と少しずつ増えると、
自分は店のオブジェのひとつになったかのように、静かに一角で息を潜めていた。
すると居合わせた客の合間から、まるでステージに上がるシンガーが
幕の合間からするりと抜けて出てきたように自分の前に現れて、
大きな瞳をこちらに見据えて決して目をそらずに自分の向かいの席に座って微笑んだ。
「栄治さんですか?」
居慣れた店とはいえ、見知らぬ女性に名指しで声をかけられるのは唐突だった。
彼女は私の表情を見て取ると、美恵と名乗った。
友人がここの常連の一人で彼女自身も最近この店に出入りしているということ。
私のことを無類の古いロック、ソウル・ミュージック、ブルース好き、
そして株に関して独特の分析手法を持ってかなり稼いでいるということを常連客から聞いたという。
「それはだいぶ誇張されてるよ」
私は自分自身に関してそのような噂をされていることを初めて知り、戸惑いながら答えた。
「音楽に関してはだいたい合っているけれど、
こういうところに来ている人たちに比べると格段詳しいとか、
ミュージシャンの経歴をたくさん語れるということはぜんぜんないよ。
ただ昔から好きで、10代の頃は情報量も少なかったけれど輸入版のジャケットの雰囲気だけで
気に入りそうなミュージシャンを選んで聞いてただけだ」
顔色変えず私の話を聞いている美恵。
「株もそれほどたいしたことはないよ。
人から教わったことはない。
全部独学で昔からやっている。
ネットバブル前からやってるから、経験だけはあるし、
ネットバブルでは小銭を稼いで今やっている事務所の立ち上げ資金にはしたけど。
その後のネットバブルがはじけたときも、
他の人たちよりは痛手は少なかったかもしれない」
「それはなぜ?」
「チャート分析と会社の財務を両方見てやってたせいもあるし、
買いと空売り両方やる習慣があったおかげでもある」
「そう。それは十分すごいじゃない?ここ数年はどれぐらい儲かってるの?」
金額でいうのは生々しいし、いきなりあれこれ聞かれて普通は答えるものではない。
相手が株とは不釣合いな女性だということ。
いつまでも株の話題が続くわけでもないだろう、と思い、大体の勝率を言うと
「ふーん。すごいわね。尊敬するわ」
「株やってるの?」
「いいえ。全然。でも最近やってみようか、と思っていて、
いろいろ本を読んだりネット証券の口座も開いたりして準備はしてるの」
「そう。でもね。私は今まで一度も人に株は勧めたことはないし、
ましてや女性に株は勧めないね」
「どうして?」
「自分の知り合いが株価が下がって落ち込んでいたり、
大損して悲しむ姿を見るのはおろか想像するだけでも忍びないからね。
株なんて理論だなんだ言っても、結局は鉄火場のばくち場だし、
大資本のマーケットなんだ。
素人がうろいろしていても、結局は行き場のなくなる所さ」
「ふーん」
株をやったことのない人間にはピンと来ない説明だろうが、
私は思ったことを言った。
美恵はなにやら遠くを見つめながら納得したような表情をしている。
「いろいろ知ってそうな人ね、栄治さん。
友達になりましょう」
やり手の営業マンのように一直線でないが、柔らかく、
相手に逃げ場を与えず言葉をストレートに繰り出してくる。
自分は相手の巧みな作戦に乗っているとも気づかずに、
喜んで相手の行って欲しいところへ歩き出してしまう。
そんな術に長けた感じの美恵だが、
何か具体的に悪いものを見せられたわけではない。
まだ会った事のない新しいタイプの女だ。
自分の仕事の話や、60年代のブラック・ミュージックの話を、この店の雰囲気に任せてする。
美恵はかつてはネット・ベンチャーの社長の専任秘書で死ぬほど働いたということ。
しかし秘書だったため、株のバブルの恩恵には全く会わず、
当時は全く興味がなかったこと。
今も当時と同じぐらい仕事に24時間打ち込みたいと思っているが、
なかなかそういう会社に出会えず、数年前から惰性で不動産会社で
秘書をやっていること等、自分の話をした。
長い時間が過ぎた。
店の客は自分達以外もう一巡以上した感じだ。
「そろそろ出ようか?」
「ええ。そうね。栄治さん。
貴方とはまだまだ話したいわ」
勘定を終えて店を出る。
「帰りはどっち方面?」
私が訪ねると、
「千駄ヶ谷の方。
ねえ、実は今晩赤坂のホテルに泊まっているの。
私の部屋でもう少しだけ飲まない?
夜景が見える部屋で素敵よ。
貴方のことをもっと知りたいわ」
初めて会った女性から、これほど積極的に誘われたのは初めてだ。
彼女のいやらしくなく不自然でない誘い方を断る器量を持ち合わせてない自分に気づく。
赤坂のホテルに向かった。
美恵の希望通り、東京タワーが近くに輝き、
首都高速が六本木から渋谷へ抜けるのが見える。
上品な部屋内のインテリアに、ダークに沈んだライトが美恵を照らしている。
落ち着いた笑みを口元に浮かべ自分を見つめている。
理沙以外の女性とこういう夜景を見るのは本当に久しい。
初めて会う美恵だが、出会った瞬間から今に至るまで話の流れがスムーズで、
何か不可思議な気分だし、理沙とは違う運命のようなものを感じる。
暗い部屋にはパソコンがつけっぱなしで青く光っている。
「あ、そう。これ以上酔う前に、少し教えて。
貴方がさっき言ってた株のチャートの見方」
東京タワーが赤く光る夜景を背後に、
パソコン画面一杯にうつる株価チャートはリアリティの希薄さという点で
すごく似ている、と感じた。
この夜景と同じぐらい責任がなく、
ただ多くの人が熱中して見ている“景色”に映った。
「いいよ。自分が判断しているパターンはいくつかあるんだ」
そういうと、いくつかのチャートを引っ張り出して線を引いて見せた。
「自分がみているのはこの3つのチャートなんだ。
ただし買いや売りの判断は難しい。経験が必要だ」
真剣に話しに聞き入る美恵。
「もうこれぐらいにしよう。
最初に言ったように、俺は君には株なんかやって欲しくない。
お互い損して二人の間柄もそれっきりになるのが落ちだ。
どうしても株を買いたくなったら、電話かメールするんだ。
買いたい銘柄とその銘柄を選んだ理由だけ教えてくれ。
アドバイスはする」
賢そうな美恵は、その話で要領を得たようだった。
パソコンを閉じた。
いよいよ二人を灯す明かりは、窓越しから入り込んでくる、
東京中に住み着く巨大なサナギのようなビル群が放つ光と、
ベッドの横の仄かな淡いライトだけになった。
新しい夜が、新しい肌のぬくもりと共に始まった。
(第五話へ続く)