ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞


受賞からスピーチ代読まで

米国歌手ボブ・ディランが2016年10月13日、ノーベル文学賞受賞の発表が行われた。
以前から噂のあったディランの受賞。
音楽家のノーベル文学賞受賞という”まさか”が、現実のものとなる瞬間だった。

この受賞のインパクトもさることながら、ディランが受賞に関する沈黙を守ることで、大騒動となる。
ノーベル財団からの連絡も拒否。受賞後、ディランの公式ホームページに受賞のことが紹介されていたが、本人の意向により削除されたことが伝わると、ディランは受賞拒否するのでは?という推測が強くなった。
結局、11月には受賞を受け入れる、という本人コメントが出されたが、授賞式は欠席と伝わる等、通常の歴代受賞者とは違う対応に、世界中から困惑の声が続いた。

これがディラン・ファンにとっては“デジャヴ”に感じられる。
”これでこそ、ボブ・ディランだ”と。

12月になると、授賞式はパティ・スミスがディランの楽曲を演奏すると発表される。
後は4月にスェーデンでコンサートを行うというニュースが続き、これで一件落着かと思った。
しかしディランの本当に真価、ディラン足らしめる衝撃はその後にまだあった。
数日前に、当日は代読でコメントを発表する、というニュース。
しかし、コメントに期待する人はそうは多くなかったはずだ。
今までの流れで、75歳になり少しは“大人になった”ディランが謝辞のコメントを事務連絡的に流す程度かと、少なくとも私は思った。

果たしてノーベル賞受賞式当日。
ディランのコメントの代読は、在スウェーデン米国大使アジータ・ラジ女史だった。
大物の発表者の登場、何か米国を挙げての対応という印象だ。
ノーベル賞授賞式の会場の豪華さは格別だ。授賞式に欠席したディランの代読は、その後の晩餐会で行われた。
晩餐会会場のストックホルム市庁舎の青の間は、豪華な宮殿そのものだ。
まさしく世界最高峰のイベントに相応しい品格を保っている。
そこでアジータ・ラジ女史が紹介され、代読を行った。


(ノーベル財団公式サイトのスピーチ文章(英語))

(いくつかのメディアで日本語訳が掲載されている。
こちらは「ローリングストーン日本語版」のリンク )

“音楽の詞”は文学なのか?

“音楽の詞”は文学なのか?

この問いをディランは、”その答えは風に吹かれている”とばかりに、はぐらかし続けるのかと思われていた。

代読されたディランのスピーチ内容は、前半にノーベル賞の価値に対する畏敬と、受賞に対する名誉を謙虚にたたえていた。

そして後半。
”音楽の詞”は文学なのか?に、真っ向から答える。
ディランはこの問題を、
シェークスピアのように、“パフォーマンスのために書かれた文章は文学なのか?”と
という問いかけに、より具体化して置き換えている。

ディランは推論を展開する。
「シェイクスピアは、演技だけでなくビジネス的観点も含めて、当日のパフォーマンスがいかに成功するか?に最も心を砕いて創作していただろう」と。
「ふさわしい配役は?舞台演出は?スポンサーのためのよい席は用意できているか?」といった極めて現実的な心配だ。

そしてパフォーマンスを披露する相手である観客に対して、長年の経験を通じて得た独自の考えを展開する。
「今までミュージシャンとして、5万人の前でも演奏をしたこともあるし、50人の前でも演奏をしたこともある。
しかし難しいのは50人の聴衆の方だ。
5万人の観客は一つの人格として扱うことができるが、50人の場合は、一人一人が独立した個性や世界観をもち、演者の態度や才能を見抜かれてしまう」と。

パフォーマンスを行う人間は、そのような観客に対して、人間性を見抜かれることを覚悟して全エネルギーを注ぎ最大限の準備をする。そして演奏の時間中、いかに皆が満足をするか?に命を懸ける。そしてもちろん演者として、肝心の中身である演奏や演奏で語られる文章にもクリエイティブな才能を真摯に傾ける。
それらが全て実を結んで、初めて人々に認められるのだ、とディランは語っているようだ。
そしてディランは数十年にわたる経験を通じて、こう力説する。
創作者は、人々が”作品”の中核の一つと思っている文章に対して注ぐエネルギーの量よりも、パフォーマンスが人々を満足させられるか?に注力するエネルギーの方が遥かに大きいものだ、と。
おそらくシェイクスピアもそうであったろう、と述べるのだ。

小説家。戯曲家。音楽家。
全ての創作者は、様々な成功を夢見る。
ディランにとっての夢は、若い頃は少しでも大きな会場で演奏することだったと語る。
そしてせいぜい最大の夢として、自分の歌がいつかラジオで流れたりレコードになることだったと告白する。
それは一人でも多くの人々の耳に届くことを意味するからだ。

そして今日まで世界中で何千回ものコンサートを行い、多くのアルバムを出してきた。
ディランが核心として述べているのは、「自分の中心にあるのは自分の楽曲であり、それらの楽曲が、多種多様の文化の世界中の人々の中に生き続けている」ということだ。
この事実が、ディランにとっての最大の成功の証だと、思っているようだ。

そして最後に外部の評価についてだ。
ディランは、観客の人数を引き合いに出し、“ノーベル賞委員会が少数のメンバーにより構成されている意義”に賛同、すなわちノーベル文学賞選考の価値を肯定している。

そして「私の楽曲は文学なのか?」とディランが何度も自答した結論が
このスウェーデン・アカデミーによる選考結果である、と締めくくっている。

ディランがノーベル文学賞受賞の発表の瞬間からずっと続いてきた、「歌の詞は文学か?」の
答えは、「風に吹かれて」いるままで終わるかと思ったが、ディランの美しい作品のようなスピーチ文章で締めくくられた。

授賞式の動画を見て、スピーチ文章を何度も読み返した。
ディランの「With God on Our Side(神が味方)」をかける。
ディランの乾いた歌声が響く。
安い小さなスピーカーで聞いても、40年前に聞いた時と変わらぬ力強さで
心のど真ん中にストレートに訴えかけてくる。
このディランの作品の魅力は何だろう?
と初めてディランの曲を聴いてから40年間、変わらむ疑問を持ち続けてきた。

その答えが、40年たってやっと少し、風の合間から見えた気がした。


(終)


2017年1月15日

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