作詞の記憶


遠い昔、自分が中学生だった時に最も夢中になったのが
フォークギターをかき鳴らすのと作詞だ。
今のように”アコースティックギター”、”アコギ”とは呼んでいない時代だ。
クラスの何人かはフォークギターが弾けて、放課後のクラスでギター係で
皆の好きな曲を弾いて皆で歌う。

思えばのどかな時代だった。
女の子達が好きな曲はかぐや姫(私の中学時代はすでに解散していた
が。)やイルカ等、フォークからニューミュージックと呼ばれる時代の曲
だった。
一方自分の好きだったミュージシャンは、ボブ・ディラン、吉田拓郎、
泉谷しげる、はっぴぃえんど等硬派系の音楽が好きだった。
クラスでは皆が好きな曲を弾いて、自分の部屋では自分の好きな曲を
弾き語りで弾いていた。
そしてさらにギターにのめり込む輩は自分で作曲したりするのだが、
自分の場合は作曲の才能はないと悟った。
というかどうやって作曲したらよいのか?がわからなかった。

その代わりにのめり込んでいったのが作詞作業だ。
後にだいぶ経ってから作詞には”曲先”と”詞先”という作業のタイプがあることを知るのだが、
当時は作曲できないものだから、”詞先”というより、詞だけを書く作業を黙々と続けていたのだ。
当時好きだった作詞家は、吉田拓郎のヒット曲の多くを提供していた岡本おさみと
はっぴぃえんどのドラマー兼作詞家の松本たかし。

誰にも見せずに30歳頃まで思い出しては書き溜める、という作業を繰り返していた。
といっても書かないときは何年も書かない時期があったのだが。

そんな時、90年代中盤、インターネットがだんだん人々の間で普及して行った時期。
何気なくネットサーフィンしていたら、岡本おさみさんが”岡本おさみの作詞工房”
というHPを運営していた(現在は閉鎖)。トップページには各レコード会社のディレクターのコメントもあり、
まるでプロの作詞家の登竜門のような雰囲気が生き生きと漂っていた。
そこは誰でも投稿できて、岡本さんが自ら手作業でその投稿の詞を作品としてページに紹介されていた。
私が発見してまもなく、たしか700人以上のアマチュア作詞家が投稿してあり、
日本最大の作詞家サイトとなっていた。
私にとってはあこがれの岡本おさみさんのHP、しかも詞が投稿できる、とある。
自分は昔から書き溜めた詞を読み返し、何通か投稿してみた。
全員投稿できるのだから、数日して自分のページとして詞が載っていた。

それから数ヶ月して、岡本さんが、あまりにいろいろな詞が多すぎる、ということ、
後は恐らく運営も大変だったのだと思うが、岡本さんが厳選した詞だけを載せて後は削除する、
と突然宣言されて、700人以上いた投稿者が一気に(たしか)12人ぐらいに減らしてしまった。
幸いにも私の詞はひとつか二つ残り、そのあたりの前後に始まった岡本さんが開催した作詞勉強会にも
3度ほど参加させていただいた。
念願の岡本おさみさんとお会いできて、自分の詞も褒めていただいたことは
アマチュア作詞家としては、名誉の誉れだった。
そして何よりもプロの作詞作業、どんなことを考えて作詞作業をするのか?
ということを惜しげもなく教えていただいたことは、今思い返しても感謝の念が耐えない。

またその時をきっかけに”詞先”から”曲先”に頭の中が完全に切り替わった。
といっても相手の作曲家がいないので”曲先”をしようにも、曲がないので、
作詞はそのずっとご無沙汰になってしまった。

数年前、知り合いでライブハウスで活動をしていた女性ジャズシンガーに作詞を頼まれ、詞を提供した。
美しいアレンジのインストのデモテープを聴きながら、詞を書きあげた。
ライブでも聴いたことがあるが、とても味わいのある曲で、詞だけを書き続けてきた自分の詞が、
やっと曲と”出会った”瞬間は感無量だった。

作詞活動はそれ以来また沈黙している。
岡本おさみさんに言われた”あなたのような詞が町に流れるような時代になるといい”というような曲と出会って、
入魂の作詞をする機会を積極的に探せばいいのだろうが、ここは自分の人生、そこははかない。


いつか、世の中の人々の気持ちが明るくなれるような歌を真剣に考えて歌っている歌い手に出会えたら、
残りの人生の炎を全てささげる気でペンを握ろうと思う。



(終)


2009年4月15日

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