服はヌードより美しい


最近立て続けにヌードモデルさんと撮影をすることになった。
といっても撮るのはヌードではない。
ひねくれて違うものを撮っている。

女性を被写体にした写真は今までたくさん見てきたし、自分もいろいろなタイプの撮影をしてきた。
TwitterやInstagramに上げている女性自身の自撮り写真からスナップ写真、ポートレート等、様々なジャンルがある。
そんな中、自分が嫌悪感を持っているものがある。

それはヌードだ。
一生懸命ヌード撮影をしたり、ヌードモデルとして努力している方々には大変もうしわけないが、好きになれない。
理由として思い当たるのが、

「なんとなくアートぶって実際はエロ目的の人間目当てに作ってる」
と感じられる点だ。
建前と本音のずれを感じるものを多く目にしてきたからだろう。
特に撮る側に志の低い話を多く耳にするので余計その思いを強くしてきた面もある。

そう思っていた。
そう、男の濁った視線に真っ向から供給するのはまだいい。
要するにエロ目的だ。
こちらはこちらですがすがしくて良い。

ところがヌードは、何を目的でやっているのか?がよくわからないでいる。
ただ最近ヌードモデルさんの真面目な努力に接して、改めてなぜ自分がヌードをテーマに
しないのか??
嫌悪感を別にして理由を探ってみた。

そして今日、ようやくその理由が分かった。

それは自分の中で、
「服はヌードより美しい」
と確信していることだ。

ヌードモデルさんが体形管理やポージング等に努力しているのと同様、私が撮影する被写体さんの多くは、服装や髪型、化粧、立ち振る舞いなど、やはり並々ならぬ努力をしている。
撮影の努力を超えて、生き方に共感できるような女性をモデルに選んでいる。
そんな姿を日常的に見て私が無意識に思っていることは、

「女性は美しくあるために服を着ている」
「服を脱いだ女体も美しいが、自分をさらに美しく見せるために服を着ている」

私はそう思っている。

そう、ヌードが綺麗でないと思っていたわけではない。
ただ、私の前にモデルとして現れる女性たちは皆、ヌードよりも美しい姿で現れ、
その姿に魅了されてカメラのシャッターを切っている。
そして創作意欲に満ち溢れた彼女達と撮影前から作品の世界観について意見を交わし、撮影後の画像は彼女達からインスパイアされた世界に基づき、私の能力やエネルギーを注いで作品としている。

単純に、幸運にもヌード以上の美しいものに接してきたのだ。


(終)
2018年3月25日

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