1,000万円すった夜


ばくちにせよ株にせよ、あるいは普通の商売上の営業結果であれ、
大損した話しはあまり世に聞こえてこない。
勇ましい成功の話しは本人も喜んで吹聴するし、本になって出版もされる。
お金に絡む話しだけではない。格好の悪い話は自分から話したくはない。
周りの笑いのネタになるという心のゆとりがある失敗なら、進んで酒の肴に提供するが、
自分も立ち直れないほどの痛手は、なかなかネタにはできるものではない。

最も自分の場合、ここ数年で何度か大きなことがあった。
周りには全く判らないようなことばかりでも、本人にとっては仕事を継続しながらも
(これだけでもそもそも精一杯なのだが)、気丈に振舞うことを余儀なくされた日々が
続いたことが一度ではなかった。
誰に話すこともなく、東から朝日が昇って西に夕日が沈むように、
淡々と電話を取り、人と会い、仕事を粛々とこなすことが強いられた日々が続いた。

なぜここで不特定多数の人に、自分の恥をさらすようなことを書く気になったのか?
といえば、これも私のどうしようもないところで、これを恥ずかしい記憶としてとどめ、
自分の人生の傷として秘密のガラスケースにしまっておいて、
他人の目から遠ざけて夜な夜な愛おしい儀式のように
自分の心の傷口を上質な絹の布で丹念にいたわる、
といったようにすることもできないからだ。
本来ならばいつまでも後生悔しがるべきことなのに、もう忘れてしまっているのだ。

人生は容赦なく次の日が訪れる。
小さな楽しみも新たな頭痛の種も、毎日くる大量の無料の広告メールのように訪れるのだ。
ナイフで自分の腕を深く切られても、背中や太ももに細かく刃物で切りつけられ続けるので、
いつまでも腕の傷でくよくよしている暇はない、といったところだろうか。

昨年まで4年ほど株をやっていた(今もやっているが)。
それまでもマーケットの山谷を乗り越え、最初こそ初心者のレッスン料は払ったものの、
毎年勝ち越しを続け、自分なりに株のやり方も
自分なりのスタイルを確立した、と自信を持っていた。
「このまま毎年順調に勝ち続けられる・」そんな漠然とした計算も
自分の中では当たり前のように持ち始めた。
「株の魔力」でも書いたが、リーマンショック直後までも何とか大波にはしがみついていた。
’08年最初の暴落でまずは世界中のプロアマ投資家が
当時としては想定外の損をし(私ももちろん例外ではない)、
その後はマーケットにたつ大波のスケールの大きさに気をつけ、
挽回を虎視眈々と狙っていたであった。
非常事態の戦争という自覚もある一方で、
戦局が落ち着けば大きく戻るだろうという期待の上での買いであった。
しかし100年に一度の恐慌は私の想像をはるかに超えた。
中途半端に度胸が据わっていたことも災いした。

「もしかしたら損するかもしれない」
能天気なせりふが生暖かい季節はずれの風のように頭をよぎり、
それは日毎に黒い霧のような焦りを膨らませた。
そして見えない永遠の長いトンネルのような株価チャートと悲観的なニュースを眺め、
ある日、最後通告が自分の頭の中で響いたような気がした。
「一旦撤退しよう。」

今思えばありえないことだが、大負けなど自分には無縁かと思っていた。
まだ自分の身に降り注いだ災難か実感もわかぬ間に、
いつもの注文を出すのと同じように、決定的な大損売り注文を出した。

数日間は怒りとも悲しみともつかぬ感情がよぎったが、
意外にも冷静でいた。
ただし「たら、れば」をあれこれ頭の中でこねくり回すと、
激しい怒りがふつふつと沸いてきた。

この過去の人生の中でも指折りの大惨敗、どう落とし前をつけようか?
やけを起こしたふりをしてさらに大散財でもしようか?
こんな中年がやけになっても誰一人哀れんでくれないのは、落ち込んだ頭でも冷静に察しがついた。
こんな時にでも妙に落ち着いて理性が働くのが、自分の悲しい性である。

仕方ない。失った金に比べれば可愛い金額だ、と思って、カメラセットと
20年ぶりにMACユーザーにでも復帰するか?
そう思い、仕事帰り閉店一時間前のヨドバシカメラに立ち寄った。
自分にとってのささやかな損切りの落とし前の儀式だ。

しかし動機が本当に必要なものでなかったのか、カメラセットを買っただけで閉店になり、あっけなく時間切れ。
閉店で店を追い出され、我に返った格好だ。
それほど欲しくもなかったMACは幸か不幸か購入しないで済んだ。

店を出て夜空を見上げると、自分の心情とは無関係に
ビルのネオンの光で薄明るく不気味に光る雲に包まれた月がわずかに見えた。


人は1,000万円失うと、どのような行動をとるか?
なかなか人生で味わう機会のないことである。

始末に終えないのは、またいつか取り戻せると思っている自分がここにいることである。
不幸も幸せも、実感のあるようでない悲喜こもごもの時間の連続。
それが自分の人生のようだ。

(終)


2009年3月16日

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