懐かしきかな、昭和の生活


久しぶりに阿佐田哲也の本を読み直している。しかも電子書籍で。
文庫本は既に相当量持っていて本棚にあるのだが、電子書籍で売っているのを見て、
“ついに阿佐田哲也の本がいつでもタブレットの中に入れて読めるのか!”
と妙に感慨深い気分になり衝動買いしてみた。すべて文庫本で持っているものばかり。
インターネット時代に生きる今、実によくわからない買い物である。

タブレットの純白の背景で綺麗なフォントで読む阿佐田哲也の本、というのは妙に居心地が悪い。
今となっては遠い昔の昭和時代のギャンブル生活三昧の内容ばかりである。
ただしその違和感も、少し読み始めて読み物の中に頭が入り込んでいくと、気にならなくなっていった。
その中の一冊、「ああ 勝負師」という本がある。
阿佐田哲也氏について簡単に説明すると、麻雀小説で有名な昭和時代の小説家である。
純文学小説もかいており、そちらは本名の色川武大という名前(呼び名を変えているが)で作品を出している。
学生時代、麻雀に狂っていた私にとって、阿佐田哲也は、自分の人生の師のような存在だった。
ドロップアウトを自称し、一貫してアウトサイダーの視点で作品を描き続けていた氏の作品は、自分の境遇も重ね、ほっとしながら読んでいた。

勤め人になってからも何度か読み返しているが、今回また読み返していて思うのが、
昭和時代の日常の生活である。もちろん、ギャンブル三昧で麻雀、競輪、サイコロと、賭場を
さ迷い歩く登場人物たちの生活と、一般人の生活は一緒くたにはできない。
しかし自分の生活体験と重ね、”懐かしい””昔はこんな感じだったな”と思う節が随所にある。
本は短編が多く、登場する主人公は毎回変わり、それぞれの破天荒な生き様が描かれている。
多くは阿佐田氏も登場する。
そして主人公の仲間も登場しては、ばくちに取りつかれた悲喜こもごもな生活が展開されるのだ。
今読んでいて気になるのは、そういったばくち打ちのバランスの崩れた生活の部分でなく、
その合間に描かれる日常の生活だ。

“競輪場に着くなり、スパゲッティの大盛りをかっくらう。”
“麻雀荘で、かつ丼やカレーを平らげる”等。
小説で強調している主人公の破天荒な生活ではなく、さりげなく普通の時間の過ごし方の描写が気になるのだ。
金のない主人公なのに、無駄に食べて、喫茶店に入りびたり、タクシーで賭場を行き来する。
現代人の感覚だと、今は顔をしかめられるような無駄な小銭の出費の描写が気になってくるのだ。
そして、”そういえば昭和の時代は、こんな感じでだらだら小銭を使っていたな”と、変なところで回想してしまうのである。

食生活の描写も同様だ。
現代生活では、毎年人間ドックできっちり数値を図り、コレステロールや血糖値、体重管理を行い、
食生活にも気を配る生活が浸透している。
禁酒、禁煙、健康維持のためのジョギング。気が付けば、国民総健康オタクの生活が蔓延している。
かくいう私も、痩身体質であるが、7~8年前に内臓脂肪や血糖値を指摘され、実際体調不良の時期があった。3年ほど前より食事に気にかけ、実際体重も落ちたが血糖値や内臓脂肪は完全に正常になって、喜んでいたものだ。

“馬鹿馬鹿しい”

昭和の生活満載の文章を読んで、小市民化した自分を大いに恥じる気分になった。
“体も頭も動かなくなって、それ以後何年何十年の命を望んで何になる?”
身動きできない老人になって、税金を消費する身分になって、若い世代に迷惑かけて何か価値があるのだろうか?
そんな自分自身への怒りがふつふつと湧いてきた。
もともと酒もやらない、たばこもやらない。
ただし、その代わりというか、甘いものが好きだ。
その甘いものや、肉を控えたりと、食事には気を遣ってきたのだが、最近はそういった節制を一切やめることにした。
人に接することについては、年を取るたびに人付き合いの大切さを思い知る年代になっていることもあり、生き方としての節制はこれからも心がけていきたい。
ただし、柄にもなく小仏を目指すかのごとく、善良な小市民のような、周りをびくびくしながら
健康に節制するような”堕落した“生活からは足を洗い、昭和の不良先輩たちを見習い、
その後を追うように残りの人生、小銭をまき散らしながら、とぼとぼと歩いていこうと思う。
(終)


2015年9月6日

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