高齢の父が先日、他界した。
数年前から高齢者専用の病院で入院生活を続けていて、2年前からいつ何があってもおかしくないと先生からいわれていた状態が長く続いていた。
”あと数日で危ないかもしれない“と電話がかかってきたことも何度かあり、心の準備は何度となくしていたのだが、今回はあっけなく高齢の母親から電話の連絡を受けて知った。
ほとんどのニュースがネット経由のニュースやメールで知ることになる今日この頃、生身の人間の重要な事件を知る、という行為は、久しくなかった感覚に思えた。
昭和一桁生まれの父は、紛れもなく遠い過去の世代の人間だ。
「モーレツ・サラリーマン」時代の昭和30~40年代を働いて駆け抜けた。
父の思い出といえば、自分が子供の頃、まだ土曜日が休みでない昭和時代、日曜日も狭い居間のコタツで息をするのも惜しむかのように、一日中、書類に細かい字でびっしりと書き続けていた姿の記憶しかない。
いたたまれず休日に父が居間にいる時は、逃げるように自分の部屋に籠っていたものだった。
仕事一筋の人生の父親の姿を見て、”何を楽しみに生きているのだろうか?“と、子供心に、いや学生、社会人になってからも不思議に思い続けてきた。
そんな父は60歳を前にして突然、老後の余暇としてボタニカル・アートを始めた。
会社勤めは70歳近くまで続けたのであるが、ボタニカル・アートを始めてからは、仕事のように熱心に打ち込み始めた。
初めてわずか数年後には、大きな賞を次々と取っていた。
その姿勢は、趣味とはいえ、昭和時代の仕事一筋の時と同じ雰囲気で、無心にコタツの机の上で画用紙を凝視して筆を取っていた。
また60代になってから、パソコンを選んでくれ、といわれ買いに行ったことがあった。
そのはるか前からワープロは長年使っていたので、文章を書く経験は長かった。
それでもパソコンのハードルは高かったのであろう。当時はまだ60歳以上でパソコンを使っているのはそう多くはない時代で、基本的な操作も苦労していたようだ。
それでもWord,Excelでは書面は書いていたようで、自慢げであった。
普及し始めたインターネットも進めてみたが、“そんなものはいらない”といって、
ついぞ最後まで使うことはなかった。
80歳を過ぎてからは脳梗塞で二度倒れた。
一度目はリハビリも終え退院を果たしたが、
二回目は致命的で体のダメージが大きく、入院してからは、結局、退院を果たせなかった。
私に取っては、若い頃の仕事一筋の姿、そしてボタニカル・アートに打ち込んでいた時代、
そして最後の数年間の入院生活の三世代が記憶に残っている。
最後の入院生活の時代だが、最初の半年は、相部屋で痴呆気味で四六時中、騒々しいご老人と相部屋だったこともあり、早く帰宅したい、とずっと訴えていた。
その間、体も頭も衰えてきて、ついには帰宅したい、と一切言わなくなり、大人しい寝たきりの老人となった。
思えば、この帰宅をあきらめた時期を境に、人間としてのある種の段階を超えた、と私は強く感じた。
その後は、体も頭も衰え、おそらく最後の1年半は、私もあまり認識できていなかったのだと思う。
たまに見舞いに訪れても、息子に無反応な父に向かい合うのは辛いひと時であった。
病院はかなり高額で設備に恵まれた病院だった。
夏も冬も一定の温度で、看護体制も万全だ。
そこで、私の母親以外には一切関心のない状態で身動きもできず寝たきりで生きている父の心情を幾度となく想像した。
“果たして今生きているのが幸せなのだろうか?”
頑固な目つきで警戒するように私を見る姿をみて、その視線の遠くにある景色は何だろうか?と思いを巡らせた。
”死ぬに死ねない時代”
快適な入院生活空間は、私には無機質な苦行の空間に思えて仕方なかった。
自分もいつか体が動かなくなる時期がそう遠くない将来、必ずやってくるだろうが、
絶対にこんなところにはいたくない、とここ数年ずっと思い続けてきた。
そんな月日が流れ、ついに先日、父はついに力尽きた。
北陸から父に反発するように東京へ就職してきた父。
戦後からの時代の大きな変革を、小さな東京の片隅の一軒家を購入し、がむしゃらに働いた父。
反抗期の息子二人を育て上げた父。
ボタニカル・アートの作品の解説を嬉しそうに語り続けた父。
パソコンができて、得意満面だった父。
インターネットや携帯電話の世界には、ついぞ踏み入れることなく、現生を去っていた父。
天上へ向かい、その途中に下界を見下ろしてしみじみと眺めているのは
生まれ故郷の北陸の荒い日本海の光景だろうか?
あるいはまた新たに何か新しいものを見つけようと、ゆっくりと視線の先に手を伸ばして歩き出そうとしているのだろうか?
父がまた、新たに帰るためのエネルギーを天国からもらい、あの空虚な病院から”帰宅“できたことが、残された家族にとって、せめてもの慰めである。
(終)
2016年3月4日